2014年11月3日月曜日

立命館大学書評会報告

11月1日におこなわれた立命館大学・環カリブ文化研究会の書評会「大辻都『渡りの文学』を読む」の報告をしておきます。
西成彦先生の司会により、文芸批評家の陣野俊史さん、編集者で書評家でもある寺本衛さんのコメント・質問に、大辻が応答するというかたちで進められました。

 まず司会の西先生から、フランス語圏文学を、隣接する英語圏やスペイン語圏の文化・文学との関わりにおいて論じている点が本書の特徴として挙げられ、これがマリーズ・コンデという作家の特質なのか、それとも筆者の戦略的意図によるものなのかという大きな問いを立てられました。この問いは後の議論のなかで明らかになっていきます。

 続いて陣野さんから、本書は「語りについて延々と書かれたもの」とのコメントがありました。特にコンデのデビュー作『ヘレマコノン』(1976)における対話についてご質問がありましたが、ここでは対話の問いと答えの位相のズレに個人を超えた歴史的な光景が立ち現れること、それが当時流行していたヌーヴォー・ロマンの実験性と似て非なるものだということなどを応答しました。
 また『マングローヴ渡り』で論じた「外からやってくる者」「ハリケーン」の意味するものについて質問がありました。
 「外からくる者」は『マングローヴ渡り』(1987)のテーマですが、この小説がカリブ海の奴隷による通夜と同じ構造を持っており、多くの語りの声が引き継がれていくことにより、死者であるよそ者=白人植民者が弔われるかたちになっています。埋葬、弔いを扱った文学には古くは『アンティゴネー』やフォークナーの『死の床に横たわりて』などもありますが、ここでは海の向こうから来た「よそ者」が喪の対象であることが(ガルシア=マルケスの『落葉』も同様)カリブ海的と言えるのかもしれません(西先生による「浦島太郎」伝説参照もありました)。
 「ハリケーン」は、東日本大震災なども念頭に置いた質問だったと思いますが、これはもちろんなにかの象徴ではなく、カリブ海の人間にとっては避けようのない、暴力的な自然という現実ととらえています(そういえば議論で出たスカーフ事件の年でもある1989年は、グアドループでは巨大ハリケーンの年)。

 「語り」「人称」については、最近の日本の小説における人称の複雑化がおもに技術的なところに終始しているなかで、複雑な人称使用と関係が物語世界を創るうえで必然である参照例として、陣野さんが(中村隆之さんの偏愛する作家でもある)桐山襲の『聖なる夜 聖なる穴』(1987)を紹介されました。
 これに関連して、現在、日本語で書かれるなかでの可能性として「沖縄」を挙げられましたが、沖縄とカリブ海の接続可能性については、あの場に集まった方々にはもとより共有されているのではないかと推察します。
 陣野さんが物語内容というより小説固有の「語り」を論じた箇所に着目して問いを立て、書かれたテキストそのものに寄り添ったかたちでカリブ海の問題とつなげてくださったのはうれしく、ありがたかったです。筆者としては、まさにそこを意識して書いていたのだということが思い出され、できればもっと議論を続けたかったと感じました。

寺本衛さんはまず、5月に出た雑誌『ラティーナ』に掲載された書評内容をまとめてくださいました。そこでは、80年代以降の日本でのクレオール文学紹介・受容の変遷がたどられ、その末端に本書も位置づけられています。そのうえでラテンアメリカ地域研究の立場から、本書のカリブ海状況にかんする記述がややフランス語圏にかたよっているところがあるとの指摘をしてくださいました。フランス語圏から発信されたクレオール理論が「独立」など直接的な現実の厳しさに即したものではないのではないかとのコメントには、会場から異議も出ました。また、コンデがしばしば小説でキューバを描くことについて、独立戦争を戦った島という理想を見ているのではというご意見をいただきました。

他に、ジーン・リースとコンデの資質の違い、時代的にジルベルト・フレイレ(ブラジル)のルーゾ・トロピカリズモの影響を受けていたのか、「乳白化願望」(ファノン)をいかに作品内で処理したか、奴隷女性の声を取り込むにあたっての作家としての倫理性などの質問、コメントが挙がりました。

残念ながら当日参加できなかった久野量一さんからはメッセージとともに、『渡りの文学』にちなんで、通夜、埋葬や逃亡奴隷がテーマの、スペイン語圏を中心としたカリブの画家による絵画作品図版が送られてきました。カリブ海のアートと文学を連関的に見るという試み、まさに私も考えていたので、「やられた!」と思いました。
 またメッセージの内容は、冒頭の西先生の問いとも関係していましたが、やはりコンデ作品そのものが(大辻が戦略的に論じているというより)、つねに隣接するさまざまな言語圏とフランス語圏の関わりにおいて書かれていると言うことができます。

やはりご欠席の東琢磨さんも本書をていねいに読んでくださったうえで、本書で大辻が参照したポール・リクールと絡めてのヒロシマの記憶の問題やマルーンのテーマと絡めた東南アジアの小説『ゾミア』などに触れたコメントをお寄せいただきました。

あの場ではコメントしませんでしたが、この長い論考を書くにあたり、日本ではまず注目の集まるクレオール諸理論も視野に入れたうえで、そこと関係しつつもその範囲だけではとらえられないものとしてコンデ作品を読むこと、また「第3世界の女性文学」を論じる定形化したスタイルで論考を閉じたものにしないことを考え続けました。いずれにしても「広がり」を意識した論考ですが、結果としてうまく行ったかわかりません。
 それでも今回の書評会にしろ、女性だけでなく、少なくない「コワモテ」男性たちが、短いとはとても言えない拙著につき合ってくださったことは意外で、うれしさを感じます。
 大きな「切り口」「読み」がないという趣旨の指摘もいただきましたが、これはそうした姿勢を取ることをどうしても躊躇してしまう書き手の受動的な資質かと思っています。個人的なものなのかそれ以上のなにかあるのか、どうなのでしょう。

最後に今回の書評会開催をパリで療養中のマリーズ・コンデがとても喜んでくれており、書評会に遠くから「思いをはせている」とのメッセージをいただきました。
 お集まりいただいた方々には、心からの感謝を申し上げます。

大辻 都

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