2014年11月3日月曜日

立命館大学書評会報告

11月1日におこなわれた立命館大学・環カリブ文化研究会の書評会「大辻都『渡りの文学』を読む」の報告をしておきます。
西成彦先生の司会により、文芸批評家の陣野俊史さん、編集者で書評家でもある寺本衛さんのコメント・質問に、大辻が応答するというかたちで進められました。

 まず司会の西先生から、フランス語圏文学を、隣接する英語圏やスペイン語圏の文化・文学との関わりにおいて論じている点が本書の特徴として挙げられ、これがマリーズ・コンデという作家の特質なのか、それとも筆者の戦略的意図によるものなのかという大きな問いを立てられました。この問いは後の議論のなかで明らかになっていきます。

 続いて陣野さんから、本書は「語りについて延々と書かれたもの」とのコメントがありました。特にコンデのデビュー作『ヘレマコノン』(1976)における対話についてご質問がありましたが、ここでは対話の問いと答えの位相のズレに個人を超えた歴史的な光景が立ち現れること、それが当時流行していたヌーヴォー・ロマンの実験性と似て非なるものだということなどを応答しました。
 また『マングローヴ渡り』で論じた「外からやってくる者」「ハリケーン」の意味するものについて質問がありました。
 「外からくる者」は『マングローヴ渡り』(1987)のテーマですが、この小説がカリブ海の奴隷による通夜と同じ構造を持っており、多くの語りの声が引き継がれていくことにより、死者であるよそ者=白人植民者が弔われるかたちになっています。埋葬、弔いを扱った文学には古くは『アンティゴネー』やフォークナーの『死の床に横たわりて』などもありますが、ここでは海の向こうから来た「よそ者」が喪の対象であることが(ガルシア=マルケスの『落葉』も同様)カリブ海的と言えるのかもしれません(西先生による「浦島太郎」伝説参照もありました)。
 「ハリケーン」は、東日本大震災なども念頭に置いた質問だったと思いますが、これはもちろんなにかの象徴ではなく、カリブ海の人間にとっては避けようのない、暴力的な自然という現実ととらえています(そういえば議論で出たスカーフ事件の年でもある1989年は、グアドループでは巨大ハリケーンの年)。

 「語り」「人称」については、最近の日本の小説における人称の複雑化がおもに技術的なところに終始しているなかで、複雑な人称使用と関係が物語世界を創るうえで必然である参照例として、陣野さんが(中村隆之さんの偏愛する作家でもある)桐山襲の『聖なる夜 聖なる穴』(1987)を紹介されました。
 これに関連して、現在、日本語で書かれるなかでの可能性として「沖縄」を挙げられましたが、沖縄とカリブ海の接続可能性については、あの場に集まった方々にはもとより共有されているのではないかと推察します。
 陣野さんが物語内容というより小説固有の「語り」を論じた箇所に着目して問いを立て、書かれたテキストそのものに寄り添ったかたちでカリブ海の問題とつなげてくださったのはうれしく、ありがたかったです。筆者としては、まさにそこを意識して書いていたのだということが思い出され、できればもっと議論を続けたかったと感じました。

寺本衛さんはまず、5月に出た雑誌『ラティーナ』に掲載された書評内容をまとめてくださいました。そこでは、80年代以降の日本でのクレオール文学紹介・受容の変遷がたどられ、その末端に本書も位置づけられています。そのうえでラテンアメリカ地域研究の立場から、本書のカリブ海状況にかんする記述がややフランス語圏にかたよっているところがあるとの指摘をしてくださいました。フランス語圏から発信されたクレオール理論が「独立」など直接的な現実の厳しさに即したものではないのではないかとのコメントには、会場から異議も出ました。また、コンデがしばしば小説でキューバを描くことについて、独立戦争を戦った島という理想を見ているのではというご意見をいただきました。

他に、ジーン・リースとコンデの資質の違い、時代的にジルベルト・フレイレ(ブラジル)のルーゾ・トロピカリズモの影響を受けていたのか、「乳白化願望」(ファノン)をいかに作品内で処理したか、奴隷女性の声を取り込むにあたっての作家としての倫理性などの質問、コメントが挙がりました。

残念ながら当日参加できなかった久野量一さんからはメッセージとともに、『渡りの文学』にちなんで、通夜、埋葬や逃亡奴隷がテーマの、スペイン語圏を中心としたカリブの画家による絵画作品図版が送られてきました。カリブ海のアートと文学を連関的に見るという試み、まさに私も考えていたので、「やられた!」と思いました。
 またメッセージの内容は、冒頭の西先生の問いとも関係していましたが、やはりコンデ作品そのものが(大辻が戦略的に論じているというより)、つねに隣接するさまざまな言語圏とフランス語圏の関わりにおいて書かれていると言うことができます。

やはりご欠席の東琢磨さんも本書をていねいに読んでくださったうえで、本書で大辻が参照したポール・リクールと絡めてのヒロシマの記憶の問題やマルーンのテーマと絡めた東南アジアの小説『ゾミア』などに触れたコメントをお寄せいただきました。

あの場ではコメントしませんでしたが、この長い論考を書くにあたり、日本ではまず注目の集まるクレオール諸理論も視野に入れたうえで、そこと関係しつつもその範囲だけではとらえられないものとしてコンデ作品を読むこと、また「第3世界の女性文学」を論じる定形化したスタイルで論考を閉じたものにしないことを考え続けました。いずれにしても「広がり」を意識した論考ですが、結果としてうまく行ったかわかりません。
 それでも今回の書評会にしろ、女性だけでなく、少なくない「コワモテ」男性たちが、短いとはとても言えない拙著につき合ってくださったことは意外で、うれしさを感じます。
 大きな「切り口」「読み」がないという趣旨の指摘もいただきましたが、これはそうした姿勢を取ることをどうしても躊躇してしまう書き手の受動的な資質かと思っています。個人的なものなのかそれ以上のなにかあるのか、どうなのでしょう。

最後に今回の書評会開催をパリで療養中のマリーズ・コンデがとても喜んでくれており、書評会に遠くから「思いをはせている」とのメッセージをいただきました。
 お集まりいただいた方々には、心からの感謝を申し上げます。

大辻 都

2014年10月29日水曜日

大辻都『渡りの文学』を読む

今週末、立命館大学・環カリブ文化研究会で、拙著の書評会をしていただけることになりました。
とても光栄なことです。
気鋭の批評家の方々を相手にうまく応答できるかわかりませんが。
マリーズも、この本の出版をとても喜んでくれています。

大辻都『渡りの文学』を読む

書 評 者:寺本衛 (三省堂 書店)
:陣野俊史(早稲田大学)
応 答:大辻都 (京都造形芸術大学)
司 会:西成彦 (立命館大学)
日 時:201 4年 11 月 1日( 土)
15:30~18:00
場 所:立命館大学 衣笠キャンパス
末川記念会館 第 2会議室
主催: 2014 年度 立命館大学国際言語文化研究所・重点プロジェクト「環カリブ文化研究会」

2014年9月17日水曜日

シモーヌ・シュヴァルツ=バルトをめぐって


今週末、立命館大学にて発表予定です。
 
2014年度 立命館大学国際言語文化研究所・研究所重点研究プロジェクト
「環カリブ地域における言語横断的な文化/文学の研究」

2014921日(日) 14001730 

立命館大学 衣笠キャンパス 末川記念会館 第3会議室

「英語・スペイン語・フランス語・オランダ語、さらにはクレオール系諸語の壁をまたいで」

講師:

1) 久野 量一 (東京外国語大学)

 「環カリブの文学は何語で書かれているか?――非英語圏カリブ作家と英語について」

2) 西 成彦 (立命館大学)

 「コロンブス暦「第六世紀」の「アメリカ大陸文学」と「五つの大きな舌」――オランダ領アンチルの位置」

3) 中村 隆之 (大東文化大学)

 「ランガージュと潜在するもの:エドゥアール・グリッサンの詩学を印す一つの踏み跡として」

4) 大辻 都 (京都造形芸術大学)

 「シモーヌ・シュヴァルツ=バ ルト『ティジャン・ロリゾン』をめぐって――クレオール・コントとフランス語小説のはざま」

司会: 西 成彦 (立命館大学)

 

2014年9月5日金曜日

李良枝「由熙」


読書会で李良枝の「由熙(ユヒ)」を選んだのは、中上健次やリービ英雄があれほど絶賛するのだから読まなくてはと思いながらきっかけがないまま20年以上が経ってしまったので、無理やりこの機会に学生も巻き込んでという職権乱用行為によるものですが、並行して私の頭のなかには、同じようにふたつの言語の葛藤そのものが作品化されているシモーヌ・シュヴァルツ=バルトのテキストのことがありました。

それで「由熙」を読んでみると、祖国でアイデンティティを確認したいのにそうできない主人公の切実な痛みがドラマとしてより母語と日本語の間という言語の問題を通して描かれている、その描かれ方・筆致がすばらしく、なんでこんなにかんたんに読めるのに――少なくともシュヴァルツ=バルトの禅問答のようなフランス語小説より――今まで読まなかったのだろうと後悔すると同時に、この小説の構図って、シュヴァルツ=バルトというよりも、さんざん論じてきたマリーズ・コンデの『ヘレマコノン』と完全に同じだなということに今さらながら気づいたのです。

そしてついでに、さっき読んだ中上健次の「輪舞する。ソウル」では、ボブ・マーリーの訃報をソウルで聞いた中上とまだデビュー前の李良枝が「追悼だ!」といってタコを食べさせる店に飲みに出かけ、支払請求が「8千ウォン」なのに「追悼だから5千ウォンだ」と勝手に値切り、雨に濡れながら「エクソダス」を歌うという展開に感銘を受け、ここで韓国とカリブ海とがみごとにつながりました。

2014年7月15日火曜日

京阪のカリブ海愛好者?

今朝、京阪特急に京橋から乗り込んできた女性、有無を言わせぬ迫力で私のバッグをどかせ、ボックス席の隣にどかっと座ってきたのですが(重いからって、脇に置いていた私が悪いんですが)、やおら何か文章のコピーを取り出して読み出しました。
最近、電車で活字を読んでいる人は珍しい。
私はちょうど伊藤比呂美の『読み解き 般若心経』を読んでいて、ふたり並んで紙の活字なんてほんと稀だななどと思いながら、見るともなくちらっと目に入ってきたお隣の活字は、
「エドゥアール・グリッサン」「島々」「関係」「カリビアン・ビエンナーレ」……

「カリビアン・ビエンナーレ」ってあるんですね。
何の本のコピーだろう? いったい彼女はどういう人だろう? しかも関西でこんなことって?
とーっても気になりましたが、怖くて声をかけられませんでした。

2014年6月8日日曜日

柄谷行人『日本近代文学の起源』

大学院では今年、柄谷行人の『日本近代文学の起源』〈定本〉を読んでいます。
今日で早くも三回目のゼミ。

近代的な諸制度が確立し、19世紀ヨーロッパの「文学史」が圧縮したかたちで輸入された明治二十年代、日本の文学においてはじめて風景(内面・告白・児童)なるものが出現したという、その起源の様態を、漱石や独歩、四迷の仕事をとおして浮かび上がらせてゆく展開は、何度目か読み返しても刺激的です。

柄谷行人によれば、対象を統一的にとらえる主観はそれまで存在せず、風景とはいわばそうした内面の獲得の転倒として生じてきたもの。
その起源を忘却したわれわれは、内面も風景も(飾られていない)素顔も、当然のように古代からあると信じ込んでいるけれど、それほど昔でない近代の始まりのある時期に、そのような知覚の根本的な転換が経験されたというわけです。

二、三回でさくっと読んで、次はオクタビオ・パスの『弓と竪琴』をやるつもりでしたが、頭をつき合わせ、ていねいに確認しながら読んでいくとあっという間に時間が経ち、お昼休みもとれないほど。

今後も続けて、じっくり取り組むことにしました。

2014年5月12日月曜日

フランスで文芸を学んでみたら


気骨あるエッセイスト、飛幡祐規さんをお招きし、
以下のようなイベントを企画しました。
関西在住の方はぜひ。
 
京都造形芸術大学通信教育部文芸コース・芸術学部文芸表現学科共同開催
特別講演「フランスで文芸を学んでみたら」   

講師:飛幡祐規(文筆家・翻訳家)   
ナビゲーター:大辻 都(京都造形芸術大学准教授)

523日(金)18302000
京都造形芸術大学瓜生山キャンパス人間館403教室
申込み不要/参加無料

フランスの初等・中等教育における「国語」の授業は、私たちが日本で体験してきたものとはかなりようすが異なります。
古典文学を一部ではなく丸ごと読む、「感想文」ではない本格的な小論文を書く……。
情熱的な教師らによる一見ハードな授業をとおして、生徒たちはことばへの感受性を培っていくようです。

この春、新潮社よりエッセイ『時間という贈りもの――フランスの子育て』を上梓した飛幡祐規さんが、みずからの子育ての過程で目の当たりにした、フランスの学校独自の文芸教育について語ってくれます。
文学を学ぶことは「世界に立ち向かう準備」ととらえる在仏40年の講師から、どんな視点が得られるのか乞うご期待。

学内・学外を問わず、時間と興味のある方、ぜひお集まりください。


飛幡祐規(たかはたゆうき)略歴

1956年東京都生まれ。文筆家、翻訳家。1974年渡仏、75年以降パリ在住。パリ第5大学にて文化人類学、パリ第3大学にてタイ語・東南アジア文明を専攻。
著書に『ふだん着のパリ案内』『素顔のフランス通信』『「とってもジュテーム」にご用心!』(いずれも晶文社)『つばめが一羽でプランタン?』(白水社)『それでも住みたいフランス』(新潮社)。訳書に『フランス六人組』(ユラール=ヴィルタール著/晶文社)『王妃に別れをつげて』(シャンタル・トマ著/白水社)『大西洋の海草のように』(ファトゥ・ディオム著/河出書房新社)『エレーヌ・ベールの日記』(エレーヌ・ベール著/岩波書店)『ユダヤ人大虐殺の証人ヤン・カルスキ』(ヤニック・エネル著/河出書房新社)ほか。

大学アクセスはこちら
http://www.kyoto-art.ac.jp/info/about/access/

2014年3月27日木曜日

読書の記憶

3月と4月、いやおうなく「年度」なるもので時間が切り分けられてゆく。
日々変化しかつ連続しているのに、そうでない気分にさせられてしまうことに抵抗を感じつつ、やはりいったん終了、そしてあらたな開始と考えている自分がいます。
束の間の時間、この二週間ほどの読書をあわてて備忘録として。

・柄谷行人『遊動論――柳田国男と山人』

これは熟読した。面白かった。発想のヒントになった~!
一か所だけ引用。
「小さいこと、あるいは、弱いことは、普遍的であることと背反しない。そのような考えが、
柳田国男の思想の核心にある」
ハイネの『流刑の神々』を読むこと、柳田の『先祖の話』と『「小さきもの」の思想』を読むこと。

・後藤明『南島の神話』
・池澤夏樹『ハワイイ紀行』 
・新井朋子『ハワイの神話――モオレロ・カヒコ』
・矢口祐人『ハワイとフラの歴史物語』
・近藤純夫『フラの花100』
・瀬戸みゆき『フラ事典2』
始まりの予感。

・フレイザー『初版 金枝篇』上・下
・フロイト『モーセと一神教』
・レヴィ=ストロース『アスディワル武勲詩』
・鈴木順子『シモーヌ・ヴェイユ 犠牲の思想』
ヴェイユ・サイクルの終わりに。

・リービ英雄『日本語を書く部屋』
・吉田敦彦『日本神話の源流』
・知里里惠編『アイヌ神謡集』

・岩城けい『さようなら、オレンジ』 読んでいる途中。
・柳田国男『山人論集成』 読み始めたところ。

日々、目が見えなくなっているのが問題です。

2014年2月25日火曜日

ソチ五輪総括


予想以上に充実した大会。備忘録として。

・おそるべき身軽さ、エアーの高さを見せつけた平野歩夢のスノーボード・ハーフパイプ演技。フロントサイド・ダブルコーク1080がすばらしかった。ショーン・ホワイトのもっとすごい演技を期待していたが、彼を超える日本人の少年が出てきたとは! スノボはオリンピック以外の大会をウォッチしていなければとバンクーバーの時も思い、結局不勉強のままで来たので、新鮮な驚きを得た。

・特筆する選手がいたわけではないものの、スノーボードはハーフパイプ以外にクロスも相変わらず予想不能で胸が躍り、すごく面白い。

・スキーのハーフパイプ。重要な面談に遅刻するギリギリまでテレビの前を離れず、わくわくしながら最後まで見たが、歯磨きの仕上げに一瞬洗面台に行った隙に肝心のデーヴィッド・ワイズの試合が終わってしまい、それだけ見そびれた。日本人が活躍しない試合なので二度と再放送はなく、失策。

・スキー・ジャンプ。全身金色の葛西の大ジャンプはひたすら痛快。小学生の時から応援していた女子ジャンプの星・高梨沙羅には次を期待。原田雅彦の解説がいい。原田より説教臭いのが鼻につくものの、荻原健司の複合の解説もテクニカルな面への言及がていねいなのは助かる。アルベールヴィル・リレハンメル・長野での現役世代が良質な解説者として活躍している。

・アイスダンスでは新鋭のロシアのカップル、イリニフ/カツァラポフの演技が若々しく、発見だった。デーヴィス/ホワイトもヴァーチュー/モイヤーも完成度は高いが、こういうボールルームダンス風なスタイルより、かつてのクリモワ/ポノマレンコのような抒情的な美しさを見たい。

・男子フィギュア。高橋大輔のジャンプ不調は無念だったが、長年、(勝手に)手塩にかけてきたカザフスタンのデニス・テンの銅メダル獲得はうれしい。全体での順位は下位ながら、ウズベキスタンのミーシャ・ジーも発見だった。コレオ・シークエンス、ステップ・シークエンスで見せる高橋タイプなので、テンのようにメダルをとれるようにはならないかもしれないが、存在そのものが魅力的。中央アジア勢ががんばっている。

私が言うまでもなく、羽生結弦の躍進はすばらしい。過去三年分の映像を見直してみて、この一年ちょっとの成長が著しいと感じた。高橋との世代交代にも見えるけれど、年末に怪我をする前の高橋の強さはただ者ではなかった。しかしやはり彼は「ガラスのエース」で、勝敗という意味ではタイミングが悪かった(でもビートルズ・メドレー、魅力的だった)。

・女子フィギュア。アデリーナ・ソトニコワの若さが炸裂するような演技はすばらしかった。そつなく完璧なキム・ヨナより私は魅了された。将来オリンピック強化部長まちがいなしというようなリプニツカヤより、キャラ的にも女番長風で好感が持てる。点数が高すぎるとかいう話はそうかもねとも思う。フィギュアでは面白い演技者と勝利者は一致しないものだから(ライサチェクとプルシェンコ、クリスティ・ヤマグチと伊藤みどりの時のように)。同じ意味で、浅田真央がショートでうまく行っていたとしても、銅メダルどまりぐらいだったろう。

浅田真央の演技は今思い出しても泣いてしまうほど感動的だった。自分のやりたい演技構成に職人のようにこだわりぬいてやり遂げたという意味で。もっと楽に得点を稼げるトリプルのコンビネーションを増やすような構成をこの人ならできるだろうとトリプルアクセル主義者である私ですら思ってしまった時期があったが、6種類の3回転ジャンプすべての着氷はすばらしい。コレオ/ステップシークエンスの質の高さ、みごとさもどの演技者をも越えており、胸を打たれた。

誰よりも難易度の高い頂に挑んで乗り越えたのが真の結果(キム・ヨナは同じ環境に身を置いてきた競技者としてその価値はわかっているはず)、今のISUの採点基準により6位にとどまったのが表面的な結果と私は考えている。

 

2014年2月21日金曜日

第2回日本フランス語圏文学研究会

3月6日(木)11時より、京都造形芸術大学NA409教室にて、
日本フランス語圏文学研究会の研究発表会を開催いたします。
http://www.kyoto-art.ac.jp/info/about/access/
来聴歓迎ですので、お近くの方はどうぞお運びください。

以下、プログラムです。

午前の部11:00~

開会の辞 立花英裕(会長・早稲田大学)

研究発表

「軌跡の詩学――インゴルドとグリッサンをめぐって」
工藤晋(都立南葛飾高校)

「エメ・セゼールとフランス語の生成――『帰郷ノート』を例に」
福島亮(早稲田大学)

午後の部14:00~

「エメ・セゼールにおける〈文化〉と〈レイシズム〉――その時代背景をめぐる予備的考察」 
立花英裕(早稲田大学)

「第二次世界大戦後のフランス領西アフリカ(AOF)――
コートジボワール作家ベルナール・バンラン・ダディエの体験と自伝的小説『クランビエ』から」
村田はるせ(アフリカ文学研究者)

「初期アルジェリア文学における世界観」
鵜戸聡(鹿児島大学)

「ニューヨーク1939‐1942――シモーヌ・ヴェイユとゾラ・ニール・ハーストン」 
大辻都(京都造形芸術大学)

16時頃、発表終了予定。

2014年1月8日水曜日

イベント「マリーズ・コンデ/グアドループの海岸から世界文学の深層へ」

1月13日(月祝)15時から、下北沢のブックカフェB&Bで、本の刊行記念イベントが
 
カリブ海のスライドなどもたくさん用意しましたので、お時間があればどうぞ参加してください。
(ウェブサイトでの申込みが必要です)
 
以下、B&Bウェブサイトからの転載です:
 
大辻都×小野正嗣×管啓次郎
「マリーズ・コンデ/ グアドループの海岸から世界文学の深層へ」
『渡りの文学』(法政大学出版局)刊行記念


カリブ海のフランス海外県、グアドループ。この美しい島出身のマリーズ・コンデは、
現代フランス語圏文学を代表する作家のひとりです。
彼女の文学の全体像を見わたす本格的な研究書『渡りの文学』の出版記念イベントとして、
著者の大辻都さん(京都造形芸術大学准教授)と小説家の小野正嗣さんに対談して
いただきます。

小野さんがパリ第8大学で博士号を取得した際の論文は、まさにマリーズ・コンデ論。
また、司会・進行を務める管啓次郎さんはコンデの『生命の樹』を翻訳しています。
カリブ海文学に関心をもつ3人のお話から世界文学の第一線が浮かび上がる、
刺激的な午後となることでしょう。

2014年1月6日月曜日

『いま、世界で読まれている105冊』

またさかのぼってのお知らせですが、日本未翻訳の世界中の文学作品を紹介するという
面白いコンセプトの本が発行され、私も執筆に参加しました。

タイトルは『いま、世界で読まれている105冊』(Ten-Books、2013年12月刊)

アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ、オセアニア……それこそ世界中の地域から
105冊が紹介されており、私はグアドループの作家、シモーヌ・シュヴァルツ=バルトの
『奇跡のテリュメに雨と風』について書いています。

できることなら翻訳もしてみたい、人気作家のマリーズ・コンデとはまた違った、神秘的な
味わいをもつ、大好きな作品です。

2014年1月5日日曜日

『渡りの文学』刊行のお知らせ

 

 
明けましておめでとうございます。
2013年12月に著書を刊行しました。手にとっていただけると、うれしいです。
今年も文学を通し、近くや遠くの世界のことを考え続けたいと思っています。
 
大辻都『渡りの文学 カリブ海のフランス語作家、マリーズ・コンデを読む』
(法政大学出版局)  
                       
以下、目次です:

序章 マリーズ・コンデとは誰か?

第I部 カリブ海、言葉の胎動

第1章 被植民者による諸理論の変遷とその後景
一 セゼールとネグリチュード
二 クレオール性とは何か?

第2章 書かれること/書くこと──表象としてのカリブ女性から女性作家へ
一 植民者と「黒人」の出会い──恐怖から接近へ
二 ドゥドゥイスム──クレオール女性の表象
三 ヨーロッパ人作家が描く「黒人」女性像──『ウーリカ』『ユーマ』「ボアテル」

第3章 カリブ海の女性作家誕生
一 戦間期とヴィシー政権下──S・ラカスカード、S・セゼール
二 一九六〇年代:カリブ女性の日記文学と病理──ミシェル・ラクロジル
三 一九七〇年代:クレオール世界のアレゴリー──シモーヌ・シュヴァルツ=バルト

第II部 マリーズ・コンデを読む

第1章 マリーズ・コンデと「アフリカ」──『ヘレマコノン』をめぐって
一 『ヘレマコノン』とその背景── 一九六〇年代初頭のアフリカ独立国家
二 セゼールからファノンへ──コンデと「アフリカ」を結ぶふたりの作家
三 大文字の「アフリカ」はあるのか
四 隔てる時間と集団的記憶

第2章 非‐マロン文学としてのカリブ海文学──『わたしは魔女ティチューバ』
一 アフリカからアメリカへ──新たな自伝
二 マロナージュと母子関係──トニ・モリソン『ビラヴィド』と『わたしは魔女ティチューバ』
三 語りとしての滑稽叙事詩と非‐英雄たちの共生

第3章 アフリカ‐アメリカ‐カリブ海──『最後の預言王たち』
一 ふたたび「アフリカ」──非‐英雄スペロの起源探索
二 アメリカのカリビアン
三 カリブの母の系譜
四 アメリカ/カリブのアナンシ的ネットワーク

第4章 蜘蛛の巣化する一族──『悪辣な生』
一 カリブ海の歴史とある家族の「滑稽叙事詩」
二 個人の記憶、集団の記憶
三 世界の周縁としてのカリブ海ディアスポラ

第5章 アンチ・ヒーローと名前──コンデ作品のカリブ世界創造:『マングローヴ渡り』『移り住む心』(前)
一 英語文学の書き換えとグアドループへの移植
二 他所者のいる共同体
三 奇妙な名──クレオールの魔術空間

第6章 微弱なポリフォニー──コンデ作品のカリブ世界創造:『マングローヴ渡り』『移り住む心』(後)
一 複数化する乳母(マボ)たち
二 コンデの「姉」リースの多層的批判
三 マングローヴを生きる──シャモワゾーとの対話

終章 世界の網としてのカリブ海

 註記
 あとがき
 附録3 マリーズ・コンデ個人年譜
 附録2 カリブ海の女性文学史
 附録1 カリブ海のフランス植民地史概略
 参考文献一覧
 索引