2013年5月30日木曜日

朗読劇「銀河鉄道の夜」関西ツアー

一昨年の初演から数度にわたり通ってきた朗読劇「銀河鉄道の夜」。
とうとう関西で立ち会える日がやってきました。

京都公演は、叡山電車を貸切りでという異例の試みです。
往路では、暮れなずむ車窓の景色を目に入れながら聞く小島ケイタニーラブさんの
澄み切った歌声。
鞍馬駅の待合室で、天狗に見守られながら聞く朗読劇。
復路では、揺れる裸電球によりまったく別の空間となった車両のなかでの渾身の朗読。

ふだん通勤電車として使っているだけに、なんとも不思議で、興奮を誘う体験でした。

そして大阪・心斎橋の劇場でおこなわれた完全版。
あらたに加わった東北・被災地の映像、それとオーバーラップする一見関係のない
詩の朗読はことばで言い表せません。
「らっこの上着」という新しいキャラクターもユーモラスでよかった。
(なんで「上着」がキャラクターなのか)

これで五回観たことになり呆れられてもいるのですが、見るたびぐっと来てしまうし、
この劇は生成しつづけている!という実感があります。

またどこかで立ち会ったとしても、真新しい気持ちで心打たれることを確信しています。


ところでこの朗読劇、土曜日の朝日新聞でも記事になっていましたが、テレビカメラも
入っていたんですね。
大学で「KBSのニュースで映ってましたよ!」と言われてしまいました。

2013年5月21日火曜日

ジクジクたる思い

言葉の覚え間違い、読み間違いというのは、私はこれまで誇れるほどありますが、
職業柄このごろは、自分でちょっと怪しいと感じると先回りして調べ、恥をかくリスクを
回避することが多くなりました。
なんか、潔くない、かわいくない態度ですね。

覚え間違い、大いに楽しいではありませんか。
少し前、読んだレポートにあったのが「ジクジクたる思い」。
これいい!
感じが出ている。
今の私の気持ちにぴったり!
と、膝を打ちました。

関西は、もともとの文字の読みが口語として崩れて、それがまた文字の読みとして
再定着する例が地名などに多いのが面白いと思います。

うちのすぐ隣りの「釜座通り」が「かまんざ」通りなのは、かっこいい。
「松屋町」が「まっちゃまち」とか。

ちょっとクレオール語が文字に表記される感じと似ている?

2013年5月13日月曜日

お知らせ:『双頭の船』書評

遅くなりましたが、お知らせです。
現在発売中の『すばる』6月号に、池澤夏樹著『双頭の船』の書評、「彼岸と此岸の渡し船」を
書いています。

3.11以後、文学者なら誰もが畏れ慄いて立ち止まり、どう世界を捉え直し、未来を思い描くかを
あらためて深く考えたはずです。
そうした本気の熟慮が創作に生かされたひとつの例がこの小説だと思っています。

よかったらご一読ください。

2013年5月3日金曜日

フォークナーと銃規制

今日、アメリカで5歳の兄が2歳の妹をライフルで誤射し、死なせてしまったという
ニュースがありました。
「初めてのライフル」などと宣伝され、子供に買い与えられている現実があるとのことで、
聞かされれば、日本人の感覚としては「非常識」「ありえない」と当然思うわけです。

それでも、昨日フォークナーの「熊」を読み終わった延長で考えると、
これだけ銃規制を言われてもアメリカの銃社会が変わらないのは、基本のところにこの
「熊」の世界があるからだと妙に腑に落ちてしまうのです。

「熊」の主人公の「少年」も、10歳から銃を持たされ、大人たちにまじって森へ入る。
最初は何もできないんだけれど、森のことをだんだん知り、動物の行動を知り、
獣をしとめられるようになってゆく。
それが大人になるということなんですね。

もちろん、今の子供が生活のために狩猟をするわけではありませんが、
起点にはフォークナーの世界があると思うと、善悪は別にして、少なくとも
たんなる流行りとしての「ありえない」風潮ではないんだという気がしています。
それがアメリカなんだなと思います。

2013年5月2日木曜日

『白鯨』と「熊」

つねに何冊かの本を同時並行で読んでいるのですが、
昨日は長らく熟読していたメルヴィルの『白鯨(モービィ・ディック)』(1851)を、
今日はフォークナーの「熊」(1942)を、立て続けに読み終えました。

ふたつの小説は書かれ方も規模もまったく違うとはいえ、どちらも、
「この作家はなぜこれを書こうとするのか、書いてしまうのか」という謎(というか
疑念というか)を読み手に抱かせ、その謎にこちらも惹きこまれてしまうという
ところは似ているような気がします。

書かれ方が違うといっても、それぞれ、巨大な鯨をしとめることへの執着、
巨大な熊を狩ることへの熱を描いているのだから、ともにハンターの小説であり
日本にはあまりない、アメリカらしい小説ということもできます。

『白鯨』は置いておいて「熊」についていえば、この中編における獣(熊、
犬、鹿)の描写は圧倒的な迫力があります。
力強いとか、猛々しいとかいうことでなく、その寡黙さや無関心を含め、
ただずまいや動きの書かれ方に凄みがある。
そして、決して獣対人間とか、ましてや擬人化された獣とかいう描き方は
ありえず、自然(森)の一部としての獣なのであり、人もまた同等に
そうなのです。
時に人は、獣の動きを模倣しているかのように描かれます。

これは秋にやる授業で、獣をテーマにした小説のひとつとして読むつもり
なのですが、あらためていいのを選んだなあと自分のラインナップに
惚れ惚れ。
これを古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』などと一緒に
やるんですよ。
がんばろう。